テンペストを用いたアプロプリエーション様相の提案

 

 テンペストシェイクスピアの晩年の作品とされており、魔法や妖精が数多く登場する幻想的な舞台が特徴である。地位を奪われ孤島に流されたプロスペローの復讐劇が描かれるが、最終的にはプロスペローは自らを謀った者たちにも赦しを与えることから、テンペストは「復讐と和解」の物語であるとされている。

 

 

 

  • アプロプリエーション様相と既存の翻案作品

 

 アプロプリエーション様相とは、舞台作品の再制作の手段として、作品の「近接化」を主とするアダプテーション様相と対になるものとして位置づけられている。

 すなわち、アダプテーション様相では素材となる物語への「忠実」の度合い、そしてその「忠実」が観客に察知されることが重要であるのに対し、むしろ素材を批判し、問い詰め、価値を吟味することが求められるアプロプリエーション様相においては、どの作品のどんな問題点が標的となっているのか、という設定さえも受容者の感性にゆだねられる。

 問題の提起をほのめかすためにはある程度素材との「類似性」が必要になる一方で、特定の解釈をおしつけることは、アプロプリエーション様相を仕掛けられた作品の鑑賞において必要な作業ではない。

 

 

 

 

〇『あるテンペスト』(エメ・セゼール、1969)

 

 テンペストの物語の中で比較的手ごろな批判材料となりうるのは、キャリバンやシコラクスといったいわゆる原住民のあつかいであろう。プロスペローは島に対してはあとからやってきた侵略者であり、原住民から島を取り上げただけでなく、原住民を奴隷として使役さえしている。

 この西洋中心主義的なプロットは、ヨーロッパによる新大陸発見と奴隷制度の歴史という観点から様々な批判・解釈をうけてきた。

 これに対して、フランスの作家エメ・セゼールは、1969年に戯曲『あるテンペスト』を出版する。作中では、キャリバンを「ニグロの奴隷」と明言して現実社会に即した属性を与えることで批判の対象を示すとともに、テンペストの主題のひとつである「和解」がキャリバンには向けられない物語を描くことで、実際の差別問題の複雑な構造を明らかにしている。また、素材の基本的な舞台設定や物語の流れを踏襲することで、受容者が容易に標的を察知することができる状況を作り出しているという点において、『あるテンペスト』は、アプロプリエーション様相による批判のためにアダプテーションも用いている実例だということができるだろう。

 

 

 

○『プロスペロの本』(ピーター・グリナウェイ、1991)

 

 グリナウェイによる映画作品もまた、素材の基本的な設定やストーリーをそのまま踏襲しているという点においてはアダプテーションの様相を呈している。

 一方、映画の中でプロスペロー自身が物語をつづり、プロスペローの声によって登場人物たちのセリフが読まれるという演出から、プロスペローが老年でありテンペストシェイクスピアの晩年の作品であること、プロスペローが魔法を捨てる結末がシェイクスピアが作家業から手を引く過程と類似することなどからしばしば指摘されるプロスペローと作家(シェイクスピア)の同一性について言及しているようにも思われるが、ここでは本や学問の取り扱いに焦点を当ててみたい。

 劇中に頻繁に登場する書き文字や本のページが舞うシーン、具体的なタイトルと内容が与えられたプロスペローの生を救ったともいえる24冊の本、魔法を捨てたプロスペローが本を捨てに行くシーン、さらには『プロスペローの「本」』というタイトルからして、本作が本や学問に対する文化観を重点的に描いているということがわかる。さらに、素となる作品ではあまり描かれていないが、プロスペローが追放された原因が、学問(本)へ没頭し政治をおろそかにしたこと、すなわち私を重視し公を軽んじたことにあるとするならば、プロスペローの自意識に焦点を当てた再解釈も可能なのではないだろうか?

 

 

 

○『禁断の惑星』(イーストマン・カラー、1956)

 この映画作品は、上記の二作品と比べると最もアダプテーション様相の度合いは低い。つまり、言われなければこの作品がテンペストの設定を踏襲しているとはわからないほどであり、舞台が孤島から宇宙に変化し時代設定も異なるほか、登場人物の人数や生い立ちなど、細かな設定が変化している。この作品の中にアプロプリエーション様相の適用を見るならば、テンペストにおける魔法が映画の中で科学技術に適用されていること、すなわち発達を続ける科学に対する警鐘的な主題を読み取ることができるだろうか。

 さらに、テンペストが平和で円満な未来を予感させる終わり方をしている一方、禁断の惑星の中でのプロスペロー的立ち位置であるモービアス博士は自爆を選ぶ。この悲しい結末を、テンペストの「和解」に対して「実現されなかった平和」ととらえるならば、先述の主題を補強するためのストーリーであるようにも思われるし、それがモービアス博士の自我の暴走の結果であることを考慮すると、こちらの作品もプロスペローの自我と潜在意識に焦点を当てアプロプリエーション様相を仕掛けているようにも思われる。

 

 

 

 

 

  • 新たなアプロプリエーション様相の提案

 

 上記の作例を踏まえて、新たにプロスペローの自意識、そしてあまり触れられてこなかった娘・ミランダの自意識、ひいては二人の親子関係について焦点を当て、アプロプリエーション様相を仕掛けてみたいと思う。ストーリーは以下のようになる。

 

 

―――

  舞台は現代。父と娘は長年二人暮らしを続けている。

  優秀だが満足な地位につくことができなかった父は社会へのルサンチマンを募らせており、社会への復讐のために娘の教育には熱心である一方、友人と遊ぶことを禁じ、隣人を自分たちより劣った存在であると教え込むなど娘に対して支配的な態度をとりつづけていた。

  容姿に恵まれ高い学歴も手に入れた娘は、父の勧めである男性と恋仲になる。二人が結婚すれば自分にも転機が訪れるだろうという父の策略のためであったが、娘は誠実な男性のおかげで以前からうすうす感じていた父からの抑圧を改めて自覚し、その影響からのがれようともがき始めるのであった。―――――――

 

 

 

 

 過去には「正当」であったはずの制度や行為を現代の文脈で評価するならば、家父長制も批判を免れない。テンペストの主要な女性の登場人物は、娘のミランダとキャリバンの母であるシコラクスのたった二人であり、国においても島においても権力はすべて男性が握っていることがほのめかされている。プロスペローはミランダを愛し素晴らしい教育を施したと言うが、それでも自らの策略のため、実の娘にも魔法をかけて特定の男性と恋仲になるようにしむける。しかも意図的に恋路を邪魔しさえする。つまりプロスペローにとってミランダは道具でしかない。テンペストが「復讐と和解」の物語だとして、その赦しが敵やキャリバンにさえ向けられるのに対し、プロスペローがミランダに(自分の勝手、あるいはミランダの恋心をもてあそんだことについて)一言詫びることはないのである。

 

 

 提案するアプロプリエーション様相では、舞台を現代にすることで家父長制に対する批判的なまなざしの受容を促すとともに、今なお様々な課題をはらむジェンダー観をもう一つの主題とすることで、現代社会の問題の構造をより明らかにすることを目指す。

 

 すなわち、父子家庭や父親の子育て参入が比較的一般的になってきた現代において、かつては母子間の問題として語られることが多かったいわゆる「毒親」問題が、父と子の間でも生じうるということである。そしてジェンダー平等を目指しているはずの社会において、長年ひとりで子育てをしてきたという点で平等の志向に触れているはずの父は、やはり男性として自分の能力で身を立てることを至上とし、それが女性である娘の結婚によってなされると信じて疑わないこと、つまり、ある点においてはジェンダーの平等が達成されているかのように思われるにもかかわらず、ある点にはいまだ過去の価値観を引きずっているという矛盾した状況を描くことによって、まさにジェンダー問題の過渡期である現代の様子をより明らかにすることができる。

 

 

 

 物語の中で娘は、自分の意思であると感じていたことが父の意思であったこと、父からの抑圧が自らの生きづらさを助長していることに気づいて悩む。しかし、男性への恋心がゆるぎなく、男性と出会えた過程や、確かに自分の助けになっている教育に父の協力があった事実をどのように受け止めればよいのかわからず大いに苦しむであろう。父にとっては、長年育て上げた愛しい子供が自らの手を離れようとする苦しみを味わうことになる。それは単なる子離れ・親離れの問題に終始しない。自分と子供の自我の区別をつけられなかった父にとっては、自分の身体の一部が無理やり切り取られるかのような苦しみであり、長年練り上げてきた計画が成し遂げられなかった絶望と対になって目の前に立ち現れるのである。

 

 

 

 

 

 

 

【参考文献】

松岡和子訳,テンペストシェイクスピア全集8,ちくま文庫,2000

 

 

尾崎文太,エメ・セゼール『あるテンペスト』 : シェイクスピア演劇の新大陸/植民地主義的問題系への翻案の意味,日本フランス語フランス文学界関東支部論集,14巻,2005

https://www.jstage.jst.go.jp/article/bellf/14/0/14_253/_pdf/-char/ja

 

大島久雄,『プロスペロの本』と西洋書籍文化,芸術工学研究.9,pp.1-11,2008-03-25

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2794879/p001.pdf

 

大橋洋一,エアリルとキャリバンラテン・アメリカにおけるシェイクスピア的人物の文化史への覚書,れにくさ = Реникса : 現代文芸論研究室論集 (4) ,58-73,2013

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=37461&item_no=1&page_id=28&block_id=31

 

菊池善太,The TempestからForbidden Planetへ ―CalibanはIdの怪物か?―,日本大学大学院総合社会情報研究科紀要 No.7,399-407,2006

https://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf07/7-399-407-kikuchi.pdf