炊飯にまつわる小噺 心情のジェットコースター

実家から新米が届くというので、わたしはウキウキしていた。

つい先日、炊飯用のきれいな土鍋を買ったばかりなのである。

 

 

一人暮らしを始めてから6年、ずっと使っていた炊飯器が中途半端に硬いご飯を炊き上げるようになってしまい、半年ほど片手鍋でご飯を炊いていた。

もともと白米をよく食べる方ではないので、それでも不都合はなかったのだが、偶然美しい土鍋を見つけて購入したところだったのだ。

 

 

新しい土鍋で新米が炊けるとは、楽しみなことこの上ない。

 

土鍋の目止めを行い、冷凍庫のスペースを空け、古米を炊くのを我慢して新米が届くのを待っていたのである。

 

 

 

 

実家から届いた小包には、カップ2杯からすこしあふれるくらいの新米が入っていた。

2合炊きの土鍋にぴったりの量である。

 

 

新米は少なめの水で炊くべしとのことで、ちょうど2合分くらいの水を土鍋に入れ、強めの中火にかける。

12分ほど経ちふつふつと音がしてきたところで、火を弱火にし、さらに5分。

お焦げを作りたかったので、さらに3分ほど弱火での過熱を追加する。

 

 

と、少し席を外したところで、気づかないうちにガスコンロの火が消えてしまっていた。

鍋でご飯を炊くのは、意外に工程が少なく簡単なようでいて、やはり失敗の要素が多い。

 

お焦げを作るための過熱だったので炊飯には問題ないだろうと思い直し、蓋をしたまま20分の蒸らしに入った。

 

 

 

初めて使う土鍋で炊く新米。

出来上がりが楽しみで仕方ない。

 

 

 

 

蒸らしの時間が終わりどきどきしながら土鍋の蓋を開けると、つやつやの新米が現れた。

 

 

しかし、炊きあがったご飯は思ったより硬かった。

 

 

 

やはり途中で火が止まってしまったのがよくなかったのだろうか。

残念ではあるが、初めての土鍋での炊飯は少し失敗してしまったようである。

 

 

とはいえこの土鍋との付き合いも始まったばかり。

これから浸水や火力の加減についてもわかってくるだろう。

 

 

 

 

お焦げの生成には成功していたので、その歯ごたえを楽しみつつ、炊飯の結果を母に報告する。

 

いつもであれば2合の白米を消費するのに1か月かかることもあるが、新米のお焦げがおいしくてすぐなくなりそう。

 

そんなことを話していると、母が怪訝そうにこう尋ねてきた。

 

 

 

 

「ところで、送った新米は1袋に3合入っているけど、2合って何のこと?」

 

 

 

 

 

 

どういうことだろう。

 

 

 

 

わたしは今日、いつものように付属のカップを使ってお米を計量した。

お米は確かに、カップ2杯には収まらなかったが3杯には満たないほどの量だったのだ。

 

 

それが3合だって?

 

 

しかし、2合と3合を測り間違えるならまだしも、3合だと思って2合でも3合でもない量のお米を袋詰めするのは妙である。

 

 

 

 

 

 

 

わたしはキッチンに戻り、恐る恐る米びつに入ったカップを手に取った。

 

 

 

 

 

 

え、

 

 

 

 

乾いた声が漏れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとそのカップは、合数とmLの両方のメモリが刻まれており、

すりきり1杯が、1合ではなく200mL強を示す計量カップだったのである。

 

 

 

 

 

わたしは混乱した。

 

より複雑な方法で。

 

 

 

 

 

 

今まで1合(約180mL)と200mLの区別がついておらず、計量カップのすりきり1杯を1合としていた過ちに気付いたから、

 

ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

このひとり暮らしの6年間の、お米の計量に関する記憶が大きく揺さぶられたからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは今日初めてお米を炊くわけではない。

 

 

そしてわたしは、1合と一般的な計量カップの1杯が違うことを確かに知っている。

 

 

 

 

今までお米の炊きあがりに問題がなかったことを考えると、わたしはこの6年間、すりきり1杯ではなく、計量カップのちょうど1合のメモリのところを目印にお米を計量していたはずなのである。

 

 

 

 

計量カップのちょうど1杯ではなく、8分目位のところに量を合わせる作業は複雑である。

 

 

複雑なルーティンは単なる記憶を超越し、身体記憶として体にしみこんでいるはずだ。

 

 

 

 

しかし、その記憶が一切ないのだ。

 

 

 

 

 

むしろ、すりきり1杯で1合を計量した記憶の方が身近であるような気さえする。

 

 

 

今日もわたしは、無意識に計量カップのすりきり1杯を基準にお米を計測し、送られてきたお米が2合よりは多く3合よりは少ないと判断した。

 

 

 

 

お米をすりきり1杯で計測するか、カップの8分目くらいの位置にあるメモリに合わせるか。

 

 

そんなルーティン的に行っている動作の記憶が、いつの間にか置き換わってしまうことなんてあるのだろうか?



 

 

 

わたしが2か月、長い時は3か月に一回しかお米を炊かない生活を送っているからだろうか?

 

 

 

 

 

いや、2年ぶりに車を運転をした時もなんとか操作を思い出せたのに、

 

半年に一回ほどしか使わない住宅用洗剤の収納場所だって覚えているのに、

 

2,3か月に一度カップでお米を計量する際の手順を間違えるなんて。

 

 

 

 

 

 

疲労からくる脳の誤作動という感覚でもない、

 

わたしの脳みそに、なにかもっと大きな問題があるのかもしれない。

 

 

 

神経内科の受診を本気で考える。

 

 

 

 

 

 

不安から台所をうろうろしていると、ふと、ある事を思い出した。

 

 

 

 

そういえば半年ほど前、米びつを一回り小さなものに買い替えたのだった。

 

古い米びつも確か吊り扉の一番上にあるはずだ。

 

 

キッチン収納の扉を開き、透明な米びつと、その中に転がる米びつとセットだったらしい計量カップを一目見て、わたしはすべてを理解した。

 

 

 

 

 

つまり、一人暮らしをはじめてから5年ほど使っていた計量カップは、たしかにすりきり1杯が1合だった。

 

 

 

そして、米びつを買い替えた際に計量カップの仕様も変わったことに気付かず、体にしみついた記憶のまま計量を続けてしまっていたのだ。

 

置き換わっていたのは、記憶ではなく計量カップのほうだったのである。

 

 

 

 

よかった。

 

 

 

 

 

いや、本当によかったのだろか?

 

 

 

 

 

 

自分の脳に重大な異常がないらしいことに安堵すると同時に、気付かなくてもよい事実が脳裏をよぎる。

 

 

 

 

 

 

米びつを買い替えたのは半年ほど前。

 

 

そして、炊飯器で炊くご飯が妙に硬くなり始め、故障を確信したのも半年ほど前なのである。

 

 

 

そのときも、「しっかり計量」していたはずなのに。